偏差値70の進学校生活より不良グループ「チーマー」を選んだ理由【アウトローストーリー第2章】

こんにちは、苫米地式コーチング認定コーチの坂上崇大(さかのうえたかひろ)です。
こちらのページは、僕の「アウトロー人生」を紹介するストーリーの第2章です。
アウトローストーリーの一覧はこちらからご覧になれます。
プロフィールの中でお伝えした通り、僕は「元チーマー」です。神奈川県いちの進学高校から「チーマー」という不良の世界に飛び込みました。
アウトローストーリーの第2章では、「チーマ―時代」にフォーカスして僕のコアになるバックグラウンドを紹介します。
暴走族やヤンキーなどの不良が嫌いだった僕が、なぜ不良の「チーマー」の世界に飛び込んだのか、そこで大切にしていたもの、そして少年から青年になる過程で経験した絶望感などをお伝えします。
コーチが持つバックグラウンドも、あなたがコーチを選ぶうえで大事な要素になります。
ストーリーを読み進める中で、あなたにとって僕が選ぶべきコーチかどうかじっくり観察してください。観察方法は、コーチの選び方の中で紹介しています。
真面目一本で人生を歩まれてきた方には、僕のアウトローストーリから「こんな生き方もあるんだ」ということを知ってもらえたらと思っています。
目次
そもそも「チーマー」とは何か
念のため、「チーマー」が何なのかを最初にお話ししておきましょう。
実際に元チーマーだった僕の口から説明するなら、チーマーとは1990年代に流行した新しい不良のスタイルで、1番の特徴は「アメリカカルチャー」を好むこと。
そして、主要駅単位でグループを作り、仲間同士でクラブで遊んだりバイクを改造して走ったり、互いの強さを証明するためにチーム同士で喧嘩したりする若者たちと言ったところですね。
一部のチーマ―は、悪いことに手を染めるようなこともしていましたが、僕はそこに魅力を感じていませんでした。
僕の定義では、「チーマー」とは新しい流行の波をいち早く取り入れて、男の強さをコンセプトにした、熱い仲間の集まりです。
神奈川県一の進学校を受験した背景
ストーリーの第1章で触れましたが、読んでいない方のために、中学時代の僕がなぜ県内いちの進学校を目指したのか、その背景を少しお話ししましょう。
目的があって進学校を受験したわけではありませんでした。
進学校を目指した背景には、中学校になじめなかったこと、受験に対する社会の流れにのった部分がありました。
中学時代の僕は、中学校生活で見られる「みんな同じ」「理不尽なことも妥協して受け入れる」という様子が、どうにも気持ち悪く、「何も考えていないバカの集まり」みたいに感じられて嫌だったのです。
部活も夢中になれるものを見つけられず帰宅部状態でした。
そんな中で、勉強は嫌いではなく好きな方だったので、「受験ではいい高校を目指す」という周りの空気を察し、進学校を目指すことにしたのです。
ただ、進学校に入って「何かこういうことがしたい!」「将来こうなりたい!」なんて思いは全くなく、親や先生たち、世の中的に良いとされるものに、なんとなく自分を合わせ、「進学校に入ること」を目標にした感じでした。
不良が嫌いだった僕が「チーマー」になった理由
さて、そんな理由で「進学高校に入ること」が僕のゴールになっていたので、入学してからの目標もやりたいこともなく、中学時代と同様に高校生活にも全然面白みを見い出せずにいました。
ただ、高校の中では、面白みを見いだせずにいた僕でしたが、この頃は学校以外の場所で、小学校や中学校時代に少し疎遠になっていたガキ大将気質な仲間たちと、小中学校での関係性がリセットされ、また新しい形で街で集まるようになっていました。
そして、この仲間たちで何かできたらいいなと思っていたのでした。
そんな折に、友人から地元の先輩たちが「チーム」を作ると聞き、再び集まったガキ大将気質の仲間たちと一緒にチームに参加したのが「チーマー」のはじまりだったのです。
暴走族やヤンキーなどの不良が嫌いだった僕が、新しい不良のスタイルである「チーマー」に参加した理由のひとつに、「これから自分たちでスタイルを作り上げられること」があります。
暴走族やヤンキーはもうすでにスタイルが形成されていて、ファッションも憧れなければ、先輩後輩の力関係も明確にあり、中学時代につまらないと感じていたたそれと同じで、全くもってカッコいいと思えませんでした。
だけど「チーマー」は、「アメリカカルチャー」が主軸となっていたのでお洒落で、ガキ大将的な男の強さがコンセプトであり、これから新しく創り上げられる楽しさもあったので、僕にとっては熱く心が動かされるものだったです。
そして、学校とは別の場所で再び集まった、ガキ大将気質の地元の仲間たちと、このチームで「思いっきり男の強さを発揮してやろうぜ」というのが、チームに参加した根底にある想いでした。
目的もない進学校生活より魅力的だったチーマー業
さて、ガキ大将気質の地元の仲間たちと参加したチームは、暴走族やヤンキーのようにできあがっているしがらみもなく、形も決まっていません。
自分たちで新しく創造していくものだったので、考えてることや想いを形にしていくことが、とにかく楽しく魅力的でした。
偏差値70の進学校校でおとなしく勉強している先にあるいい大学に入るエリートの未来よりも、不良のチーマ―として熱い想いを形づくっていく、その瞬間瞬間の方がはるかに魅力的だったのです。
高校を休学してチーマー業にいそしむ
チームに参加したはじめの頃は、高校にも通っていたのですが、次第に「チーマー業」が忙しくなり、高校には行かなくなります(一応、高校は卒業はしています)。
ちなみに、チーマー業とは地元の街を徘徊したり、他のチーマーグループと喧嘩したり、バイクで大黒埠頭を走ったり、クラブにいったりです。
まぁ、ただの不良ですが、この当時の僕たちににとっては男のロマンそのものでした。
高校生の僕にとっては、進学校で「みんなと同じ」を求められたり、「理不尽さも妥協する」同級生と過ごすより、チーマー業に励んでいる方が、よっぽど生きているって感じがして心地よかったのです。
兄弟のいない一人っ子の僕にとって、学校の同級生や先輩や先生との「うわべだけの付き合い」より、チーマー仲間たちとの「本気のつながり」の方がはるかに魅力的でした。
チーマ―同士で喧嘩するなんてバカバカしいと思うかもしれませんが、そこにはチーマー同士の「男としての力の証明」という熱い想いがあり、学校で何も考えずに過ごすより、僕にとっては価値があったのです。
ナンパをしながらバイトをする
チーマー時代は、ただ遊んでるだけではなく自分でアルバイトをしてお金を稼いでいました。
クラブに行くのもバイクをいじるのにもお金は必要でしたし、親のお金だけに頼るのもカッコ悪いと思っていたので。
チーマ―になったばかりの頃は、美容室のビラ配りをナンパをしながら楽しんでやっていました。
その後は、エステのキャッチのアルバイトをしていましたね。
セールスはせず、お店に連れていけばOKなお気楽な仕事だったので、これもまたナンパしながら楽しくやっていました。
17歳、社員旅行で初めての海外、グアムへ
アルバイトをしていたエステ会社の社員旅行でグアムに行ったのが、人生で初めての海外体験でした。
この初めての海外であるグアムは、とてもインパクトが強く、日本とは空気感やにおいが違うことに驚き、日常なんだけど、まるで違う世界に来たみたいだと感じていました。
そして、日本と違ってグアムでは人と人との距離感も違い、全てがワンダーランドに来たみたいに驚きの連続だったことを今でも覚えています。
特に、自動販売機で売っていたグアバジュースの味が今でも忘れられず、さらには会社の社長と社員のお姉さんと行った、グアムのストリップ劇場のダンサーが今でも忘れられない思い出になっています。
口にチップ加えろと言われ、ダンサーのお姉さんが近づいてきた時に感じた香水の匂いが強烈に記憶に残っていて、今でもその香水の女性がいると、その時の記憶がよみがえりドキドキしてしまいます。(笑)
さて、初めての海外に、かなりの刺激を受けた17歳の僕でしたが、この頃は日本でチーマーとしてバリバリに活動していて、心地よいと感じる居場所があったので、まだ、アメリカ行きたいとは思わずにいたのでした。
僕が本気でアメリカ行きを考えたのは、チーマー業を卒業した19歳になってからだったのです。
気がつけば神奈川県を代表するチーマーに
15歳から18歳まではとにかく、チーマー仲間と過ごす日々に夢中でした。
気がつけば、チームのメンバーはどんどん増え、中途半端な不良グループではなく、雑誌からも取材されるような神奈川県を代表するチーマーになっていました。
ちなみに取材された当時は、僕がチームのリーダー的存在でした。
僕のコーチングの得意分野に「リーダーシップ」とありますが、僕が最初に大きな組織の中心としてリーダーシップを発揮したのはこの「チーマ」の頃でした。
さて、僕にとって最高に心地いい居場所だったチームがあったので、将来の不安なんていうものは一切なく、とにかくこの楽しい時間が永遠に続くと信じて過ごしていました。
とにかく気が合う、リスペクトしあえる仲間たちと「これからどんなチームにしていこう」とか「今度はどんなことをおこそう」など、同じ夢を見て、同じゴールに向かって突っ走っていく日々が最高にエキサイティングで心地よいものだったのです。
チーマ―現役期からの卒業
さて、チーマーの世界にも卒業というものがあります。
16歳から18歳くらいまでがチーマ―としての現役期で、ガンガンに街で喧嘩したり、クラブで踊り狂ったり、バイクをぶっ飛ばしたりするのですが、19歳くらいからそういう活動からははずれ、他のチームの同い年くらいのメンバーたちと大人の付き合いが始まっていきます。
チームごとに喧嘩で力を証明する時期から、かつての喧嘩相手とも仲間として楽しく遊んだりするようになったのです。
19歳という「青年」の時期になると、それぞれが経験する世界も広がり、仲間たちが個々にもつ価値観や未来のビジョンも様々なものに変わっていきます。
それぞれの仲間が、自分の世界を広げていくことはとても素晴らしいことなのですが、仲間たちの世界がどんどん広がっていくこの19歳という「チーマ―卒業期(移行期)」は、僕にとって、とても辛い時期になっていきます。
少年から青年になる中で崩壊していく世界
さて、先ほどお伝えしたように、ずっと一緒に同じ夢を見て、同じゴールに向かって突っ走ってきた仲間たちも少年から青年になることで、それぞれの世界や価値観を持ち始めます。
これがどうして僕にとって辛いことになったかと言うといくつか理由があります。
ひとつは、当時の僕は仲間たちと「みんなで同じ夢を追いかける」という同じ方向に向かう「一体感」に価値を置いていたので、その枠の中から次々に仲間が飛び出していく様をみて、何とももどかしい気持ちになったのです。
今思えば、僕の我がままでしかないのですが、仲間が一人抜け、また一人抜けと去っていくことで、裏切られたような気持になったり、それを認められない自分にやるせなさを感じたりしていたのだと思います。
もうひとつの理由は、少年から青年になることで、男の強さが「金と権力」に変わってゆき、自分の周りに「不良だけどカッコいい男」「不良だけど清々しい男」という僕が持つ美学とはかけ離れたメンバーも集まりだしたのです。
そうした、大人のいやらしさに埋め尽くされていく感じがどうにも嫌だったのです。
自分の美学に合わない仲間を許容できなかったといってもいいかもしれません。
僕の中で永遠に続くと思っていた大切なものが、ダムが決壊したかのように崩れ、まるで世界が崩壊していくように感じたのでした。
次なる居場所を求めアメリカを目指す
さて、これまでに大切にしていたものが崩れ去るさまをありありと感じた僕は、まるで肢体を引きちぎられたかのような思いと、この先何を目指せばいいのか分からないという混乱に気が狂いそうになります。
高校時代、ガキ大将気質の気の合う仲間とともに不良のチーマーの道に飛び込んでから、チームの中心として仲間と楽しく過ごし、常に同じ目標に向かって突っ走ってきたのに、今となってはそれが叶わないと分かり、僕の頭はぐちぐちゃになります。
ですが、僕自身もこれからの将来を考えなくてはいけないという意識が同時にあり、自分のこれからの生き方を考えるようになります。
「これからどうしよう?」と未来を考えたときに、どう考えても日本で仕事を探す気にもなれず、海外といえばアメリカみたいな時代だったので、徐々に「日本を出たい」「アメリカに行きたい」という欲求が強くなっていきました。
そこから、アメリカに行くチャンスをうかがう日々が始まったのでした。
僕がアメリカに行くまでにしたこと、20歳で単身アメリカへいって価値観が変わったことは、アウトローストーリー第3章で紹介しています。
【終わりに】 コーチとして今思うこと
県内一の進学校から、不良グループの「チーマ―」になるなんて、普通に考えたら信じられないことだと思います。
ただ、僕がチーマーの世界に飛び込めたのは「心の底から湧き上がる想い」を1番に優先したからでした。
「世間体」や「常識」ではなく、「心の底から湧き上がる想い」これを突き詰めたからこそ、中途半端な不良グループではなく、雑誌からも取材されるような県を代表するチーマーになったのだと思っています。
この「世間体」や「常識」ではなく、「心の底から湧き上がる想い」は、苫米地式コーチングで最も重要なことです。
多くの人は、「世間体」や「常識」を優先するあまり、新しい行動に不安を感じたり、決断できなかったりします。
さらには、「世間体」や「常識」を基準に「目標」をかかげ、「心の底から湧き上がる想い」とはかけ離れた夢を追いかけようとします。
だから、結局はいつまでも変われないし、満たされない。
そんなつまらないループに人生という大切な時間をいつまで費やして欲しくないと僕は思っています。
さて、次のストーリーは先ほどお伝えしましたが、アメリカに行くまでと初めてのアメリカで感じたことを紹介していきます。
コーチが持つバックグラウンドもあなたがコーチを選ぶときに重要な要素です。ぜひ読み進めて判断していただければと思います。
苫米地式コーチング認定コーチ 坂上崇大(さかのうえ たかひろ)